丸の内からはじまった三菱地所レジデンスの賃貸

三菱地所レジデンスはここからはじまったー

復元された三菱一号館
現在の三菱一号館。美術館として丸の内のアイコンとなっている(2010年完成)。

今では想像できないことですが、維新後の丸の内には元の大名屋敷をそのまま利用した陸軍の練兵場と兵営がありました。国内の混乱を鎮める目的もあって皇居に隣接していた丸の内に兵力を展開していたのです。丸の内が変貌を遂げるのは、ようやく国内が落ち着いた明治23年です。陸軍が移転費用を捻出するために土地を払い下げることになったからです。当時の東京市の年間予算の3年分に相当する高額でしたが、三菱社社長・岩崎彌之助は買収を決断します。東京は江戸以来の水運の町から、鉄道を中心とした陸運の町へと変貌を遂げようとしていました。東京市区改正条例が公布され、丸の内が新生日本経済の中心地になることは明らかだったのです。
三菱地所は、入手した丸の内などの不動産を管理運営する部門として、明治39年に設置された三菱合資会社「地所用度課」を源として誕生することになります。

日本の都市の拠点にー

第1号館
明治27年、丸の内最初の洋風事務所建築が誕生した。※

営業風景
入居していた銀行の営業風景(明治期撮影)。※

大正5年頃の街並み。
大正5年頃の街並み。原っぱだった丸の内が20年もたたず煉瓦街となり、ビジネスの中心地となっていった。※

明治27年、丸の内に洋風建築が出現します。三菱第1号館(現在は三菱一号館美術館として復元)です。明治10年に来日し、鹿鳴館などを手がけたジョサイア・コンドルの設計により、煉瓦造の第1号館は建設されます。現在では当たり前のことですが、当時、門のない建物は考えられなかったため、設計には異論が出たそうです。第1号館には、三菱合資会社のほか、第百十九銀行、当時隆盛していた高田商会が入居。丸の内の第1号賃貸オフィスとしてスタートするのです。

※写真出典:「丸の内百年のあゆみ: 三菱地所社史」

ザ・パークハビオシリーズにも息づく想いー

次々と建設される欧風建築の均整の取れた街並みから、明治末には丸の内付近は「一丁倫敦」と呼ばれるようになります。そして早くも明治37年に竣工した第6号館、7号館は賃貸住宅兼事務所として建てられます。各戸に玄関、台所、浴室、物置などを設けた、現代のSOHOとも言うべきものでした。当時の新聞には「市内の中心にあり、会社、銀行、商店など、通勤者には非常に便利である」と紹介されています。「都心駅近」のザ・パークハビオのコンセプトは、明治以来の三菱地所レジデンス賃貸住宅のDNAでもあるのです。

ブランドの約束